謹賀新年.
本年もよろしくお願いいたします.
まず,能登半島地震で亡くなられた方々に
哀悼の意を捧げます.
また,
被災され今も避難生活を
されている方々に対しては
まだまだ不安な日々が
続くことが考えられますが
いつか必ず,この不安な日は
終わりが来ます.
その日まで,
新年早々に震災
そして,航空機事故…
辛いニュースが続いています.
こんなニュースが耳に入ってくると
やはり13年前の東日本大震災の時の
記憶が蘇ってきます.
本当はあまり表出しない方が
良いかと考えていましたが
やはり表出しておきます.
始めに申しておきますが
私は被災しておりません.
震災の時も
茨城県にはおりませんでしたし
震災時の揺れも経験していません.
だからかどうかは分かりませんが
震災後は被災地のために何かしたくて
いや日本をどうにかしたくて
何かできることはないかと
悶々とした日々を過ごしておりました.
震災の時,
私は回復期リハビリ病棟で
OTとして勤務しており,
中間管理職という立場で
それほど多くの患者さんを
担当していた訳でもなく
淡々と仕事をしていました.
震災があったにも関わらず
周囲のリハ専門職の方々は
何もなかったかのように
日々仕事をされていたと記憶しています.
もしかしたら,
想いはあっても表出しないだけで
何かしら感じるものは
あったのかもしれません.
ですが,
その時の私には
「こいつら何も思わないのか?」
と考えながら一人
できることを探していました.
丁度その頃は
今のX(旧Twitter)が普及し始めた頃で
他のリハ専門職の方々が
被災地に出向き活動されていることが
タイムラインに流れていました.
それでも私は何も被災地に対して
できることがないと
意気消沈していました.
私自身もOTという職を活かして
被災地支援をしたいと考えていましたが
なぜかその受け入れ先が見つからず
そして,その度胸も無く
震災から約5ヶ月が経過した頃に
瓦礫撤去のボランティアに
福島県いわき市に出向きました.
念願のというか
悶々とした日々を過ごしていた中で
形は違いますが実際に被災地に出向き
ボランティアをすることができ
少しだけ気分が晴れました.
それからは,
毎月のように被災地に
瓦礫撤去のボランティアに向かいました.
そして,
その年の10月に初めて
茨城県作業療法士会から
宮城県女川町へ支援物資を持ち
老健OTのドンとともに
避難所や仮設住宅にボランティアに
行きました.
その後は,福島県南相馬市に
今度は本当にOTとして
茨城県作業療法士会から
リハ専門職が足りない病院で
医療ボランティアとして
1日だけではありますが
活動させていただきました.
このように様々な場所で
様々なボランティア活動をしました.
医療ボランティアの時には
どこに行っても物怖じしない
最強の相棒と行ったので
こちらは緊張でガチガチでしたが
幾分,安心した心持ちで
ボランティアをすることが出来ました.
誰かの役に立ちたいと想うならば
多分,これから能登半島においても
たくさんのタスクがあるかと思います.
あとは,覚悟を決めてそこに行き
やるかどうかだけだと思います.
ボランティアは基本的に
衣食住を全て自分自身で
確保しなければなりません.
それは当たり前のことです.
被災地の方々に
負担をかける訳にはいかないのです.
それを覚悟して行かないと
悲惨な感じになります.
そんな人いないとは思いますが…
リハ専門職のボランティア活動に関しては
今現在の能登半島地震における状況では
まだ時期尚早かもしれません.
今を急性期と捉えるならば
自衛隊,警察,消防といった方々が
必死に要救助者を
助けようとしている最中です.
メディカルな方々は
救命措置や治療を
されているところでしょう.
今も避難所に避難されている方は
多くいらっしゃいますが
まずはマズローの欲求階層でいうところの
生理的欲求や安全の欲求が
まずはこの欲求を充足させることに
重きが置かれるでしょう.
そして,
その後,その上の段階の
社会的欲求になってくると
リハ専門職の出番だと思います.
もちろん,急性期から
DMATに関わっているようなリハ専門職は
ニーズ調査等で避難所に
配置されるかもしれません.
そして,
今も避難所で
起きているであろう
disuseに対してアプローチを
することになるでしょう.
大抵の場合は
急性期を過ぎて
回復期あたりから
リハ専門職が積極的な
活動をするようになるでしょう.
そのため,
もし万が一
この記事を読んでくれる
リハ専門職の方で
被災地支援をした
という方がおられるならば
今は少し我慢の時です.
今はDMAT等にお任せして
3ヶ月程度,経過してから
被災地に入ることが妥当だと思います.
今は行っても邪魔になるだけです.
焦らなくて大丈夫です.
その後,長い年月
関わり続けることは可能ですから.
もう少し書かせてください.
私の場合,
一度ボランティアに出てから
1年間は毎月被災地に行っていました.
そして,
後先考えず勤めていた病院を辞め
福島県南相馬で
訪問リハステーションを
立ち上げるというミッションに参加しました.
どうしても現地で活動して
被災地をこの日本を
どうにかしたいと
今考えればアホ丸出しの思考で
突き進んでいきました(笑)
そして,
本当に1年間という
訪問リハステーションを立ち上げ
軌道に乗せることはできました.
それでも,
南相馬の方々
それもほんの一部の方々への
支援というか協働はできたかなぁ
というのが今現在の気持ちです.
結局,私自身が
被災地のために
日本のためにできることなんか
ありはしないということは
よーく分かりました.
そして,
被災地のために何をどうするかではなく
目の前のことを一生懸命にやることが
周り回って被災地に届くんじゃないかと
考えるようになりました.
だから,
何処にいようとも
被災地のこと
被災されているところで
生活されている方々のことを
考えながら自分にできることを
できる範囲で,できる時にする.
これが一番大事なことだと
被災地に行って気づくことが出来ました.
被災地に何も出来ずに
何となく申し訳なく想う方
もおられるでしょう.
想うだけでも
充分だと想う訳です.
想わない人だっているでしょうし…
義援金もボランティアも出来ない.
それでも良いんですよ.
少し時間が経過したら
その場に行き
食事をしてお土産を買ってくる
それも立派な支援です.
支援することに
正解なんてありません.
できることをやれば良いだけです.
ちなみに
今現在の私は能登半島に対して
直接的な支援をするかと言えば
答えは「NO」です.
あれから10年以上が経ち
気力体力共に減退しました…
できることがあれば考えます.
それから,
被災地に対して
「可哀想」と発言される方がおられますが
この発言は容認できません.
あまりにも上から目線の発言で
他人事にしか考えていない発言です.
この地震や水害等が多い日本で
誰もが被災する可能性があります.
明日には自分も被災するかもしれない
にも関わらず
可哀想とよく発言できるな
もし自分自身が「可哀想」と
哀れに想われたら
どういう気持ちですかね?
よく考えてから
発言して頂きたいものです.
最後に
「支援」という言葉を
使いましたが
私本当はこの言葉が嫌いです.
この言葉もどうも上から目線で
支援といっているようで嫌いなんです.
本当は支援ではなく
「協働」という言葉を
使うようにしています.
支えているようで
支えられている
これがなければ
復興(復幸)への
プロセスは遠くなります.
まだまだ
復興へのプロセスは程遠い.
福島,宮城,岩手においても
道半ばかもしれません.
けれども
必ず日はまた昇ります.
必ずです.
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